伊佐の魅力

「新納忠元」

2018/04/01

歴史

3月に発売されたフィナンシェ「さぞな春」の由来にも関係する「新納忠元」は、薩摩島津家の重臣で和歌の名手でした。天文七年(1538)、島津貴久に謁見し、以後、義久・義弘・家久に仕え、数多くの合戦に功をたてました。天正二年(1574)、肝付・伊地知氏を帰順させ、同八年以後、肥後攻略の将として活躍しましたが、同十年には肥前の戦で子の忠堯を失っています。
 「豊臣秀吉」の九州進攻の際、当主「義久」の和議の方針に反対して抗戦を主張しましたが、結局「義久」の説得により降伏しました。「鬼武蔵」と呼ばれてその武勇を怖れられる一方、学芸にも長じ、和歌・連歌を好まれました。陣中、火縄の明りで古今集を読んだとの逸話が伝わっています。「細川幽斎」に和歌の指導を頼んで受けられました。
 さて、さぞな春。「さぞな春つれなき老いと思ふらむ今年も花ののちに残れば」という歌は、妻が病没し、その翌年三月に詠んだ歌で、「つれなき」は、亡き妻に対して「つれない」ことを意味すると共に、「連れなき」を掛けて、「妻に先立たれた」の意を響かせています。「花ののちに残れば」は、妻に死に遅れたことを歌含んでいます。奥さんへの愛を詠っています。なんだか悲しくもありますが、ロマンチックですね。

関白陣って?!

2018/03/01

歴史

関白陣は、伊佐市の曾木というところにある山にあります。島津征討の目的を果たした「豊臣秀吉」が天正15年(1587)、最後まで徹底抗戦した当時の大口城主「新納忠元」と会見した陣営跡です。
大口盆地を一望に見渡せる眺めは秀吉の陣営として最適地でした。確かに左の写真のように見晴らしが素晴らしいです。ここで「新納忠元」は、秀吉に向かって「主の命さえあればすぐ敵対する」と答えたほどの勇猛な武将でした。
「細川幽斎」が、酒盃を呑み干した「忠元」の白髭を見て『鼻の下にて鈴虫ぞなく』と詠んだところ、「忠元」は『上髭をちんちろりんとひねりあげ』と上の句をつけて返歌し、居並ぶ諸将を感心させた歌の達人でした。
「新納忠元」は、これ以外にも味のある歌を詠んでいます。そのひとつが「さぞな春」です。ちなみに、今月発売されたフィナンシェも「さぞな春」。これについては、またの機会にご紹介します。

3年に一度、神に捧げる舞

2017/09/26

歴史, 行事

鹿児島でいう神舞は神楽のことです。今回は湯之尾神舞を紹介します。広辞苑によれば、「神座かむくら」が転じたものとされています。かむくら、かんぐら、かぐらと変化していったというのが語源の定説とされます。
駄洒落のようですが、神座は、一つの場所そのものを指すのではなく、神座における所作全般を意味しています。自然物に神が降臨されて、その神にささげるものです。
神楽という名が文献に登場するのは最古のものは「万葉集(759年頃)」にあります。湯之尾の神楽も、天の岩戸の前で天照大神を慰めるために舞ったといわれ、その起源は神話の時代までさかのぼります。
伊佐市湯之尾神社に伝わる「湯之尾神舞」は、五穀豊穣、無病息災を祈願して1490年頃(室町時代)から始められたといわれています。
豪華な衣装でしめやかに踊る舞、赤い衣装に白塗りの面を着け餅をついたり鉄砲に気絶したりのユーモアたっぷりな舞、口上のある舞と句のない舞です。
以前は旧暦霜月の満月の夜に一晩中踊ったといわれ、35番の演目がありました。今は11月23日の豊(ほぜ)祭りの日に10数番ほどが披露されます。11月23日は、新嘗祭。稲の収穫を祝い,翌年の豊穣を祈願する古くからの祭儀です。
3年毎に開かれる大祭で、伝承されている26番のすべての舞が奉納されます。県指定の無形民俗文化財であり、今も地区の子供たちに受け継がれています。続けて欲しいですね。

隕石が県の天然記念物?!

2017/04/26

自然, 歴史

 131年前の明治19年(1886年)10月26日午後3時頃、伊佐(旧菱刈町と大口市)に10数個の隕石が落下しました。これは薩摩隕石(国際名は九州隕石)と呼ばれ、イギリスの大英自然史博物館やドイツのベルリン大学などで保存されています。写真(上)はアメリカ自然史博物館で保管されていたものが日本鉱物科学研究所に渡り、それを鹿児島県立博物館が購入したもので、県の天然記念物に指定されています。この隕石の成分は、二酸化ケイ素38%、酸化マグネシウム24%、二酸化鉄24%で石質隕石というものです。ちなみに重さは528gで194万円で購入されました。
 写真(真中)の薩摩隕石は、大英博物館所有のもので25.5㎏と現存する標本では最大です。2017年4月日本に一時里帰りし、上野の大英自然史博物館展で出会いました。
 隕石の命名は国際的には落下したエリアの郵便局の名前をつけるのが一般的ですが、明治19年伊佐に郵便局あったのかは分からりません。
 落下地点は、北緯32度4分、東経130度38分。大口高校の付近に落下しました。代表と顧問の母校です。凄い偶然、いや運命を感じます。これは、なにか不思議なものを感じずにはいられないですね。
当時の薩摩隕石の発見された総重量は46㎏らしいですが、ほとんど国内外に流出しました。今は県内には残っていませんが、もしかしたら、伊佐工房の地下にもまだ眠っているかもしれません。ロマンを感じますね。

日本一の金山、伊佐にあり!

2017/02/26

自然, 歴史

2017年のかごしま逸品商談会に出品した「銀河坑道プリン」のコンセプトの一部にもなっている「菱刈鉱山」。伊佐には、日本一の金山があるというのをご存知だろうか。現在は国内で稼働している金山は鹿児島県だけで串木野と菱刈2ヶ所だけ。江戸時代にその存在はわかっていたが、当時の技術では採掘できなかった。もう40年以上も前になるが、顧問が中学生の頃、カナダから探査機をもってきてヘリコプターで金脈を探していたらしい。採掘は住友金属鉱山(株)で菱刈鉱山は、1985年から216.7トン(2015年3月末現在)の金を産出。鉱山の入口を「坑口」、鉱山のなかの道を「坑道」というらしいニャ。菱刈鉱山の坑道は、標高265メートルの坑口から、海抜マイナス50メートルまで、全部あわせて100キロメートル以上ある。大型の鉱山用重機が自由に動ける大きさの坑道が網の目のように張り巡らされてる。伊佐のあちこちの地下に金脈があり、時々ド~ンという発破の音がすることも。菱刈鉱山は金鉱石1トン中に含まれる平均金量が約30~40グラムという高品位(世界の主要金鉱山の平均品位は約3〜5グラム)。現在も1年間に約7トンの金を産出している。現在、商業規模で操業が行われている国内の金属鉱山は、菱刈が唯一の存在だ。約65℃の温泉水も湧いていて、6kmのパイプラインを通って、地元の湯之尾温泉へ供給されている。その量は1分当り9千リットルにもなる。

明治の面影を強く残す産業遺産

2016/12/26

自然, 歴史

 鹿児島県伊佐市南部の川内川上流に位置する「曽木の滝」。その1.5キロメートル下流に今でも明治の面影を強く残している曽木発電所跡があります。曽木発電所は明治42年に竣工し、その出力は当時国内でも最大級のもので、水俣のチッソなどにも送電を行っていました。昭和40年に鶴田ダムの完成とともに水没してしまいましたが、水量が少ないときは中世のヨーロッパの居城跡を思わせるレンガ造りの建物が見られます。
作ったのは野口遵(のぐち したがう)という近代化学工業の父とも言われている人です。野口 遵は、金沢の貧しい士族の家に生まれましたが、勉強して成功を納め、人生の最後には私財全財産(昭和16年当時3000万円といいますから、米価比較から推計すると今の価値で810億円程度)を投げ打って、財団法人野口研究所と朝鮮奨学金を作った人です。

400年も前の大工の落書き?

2017/01/26

歴史

 伊佐には、大泉(だいせん)、伊佐美、伊佐錦という美味しい焼酎があります。伊佐にある郡山八幡神社で日本における『焼酎』という文字が初めて見られた証拠が見つかりました。今から四百数十年前の室町時代に、すでにこの地に焼酎が普及し、庶民に飲まれていたことがわかります。室町時代の永禄2年(1559年)、織田信長が桶狭間(おけはざま)の合戦で今川義元を破った前年であり、この年に社殿を修補した大工が書きしるしたと考えられます。
「座主(ざす)」とは、大寺の寺務を統括する主席の僧職のこと。「社殿修補のとき、座主がたいそうけちで、一度も焼酎を飲ませてくれない。えらい迷惑なことだ!」と訴えています。400年以上たっても、ケチだと言われるとは座主も思ってもいなかっただろう。